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町の歴史

高原町の歴史を訪ねて

1. 神話

 高原は、後ろに高千穂峰がそびえている事もあって、以前から天孫降臨の地として認識されていたようである。江戸時代末期に薩摩藩により編纂された『三国名勝図會』では、
 土俗傳へ云、當邑を高原と號するは高天原の略称なりと、凡日向国内此辺は、神代の 皇都に係り、今に都島都島は今の都城、高城などといへる地名殘るも此が為にて、此地、都島と接し、(後略)、とある。
 そしてその伝承に沿うかのように山頂には「天の逆鉾」が立てられている。立てられたのは江戸時代辺りと推定されるが、詳細は不明である。
 又、高原は、神武天皇御降誕の地としても名高い場所である。『日本書紀』にある神武天皇の幼名「狭野尊」が当町の狭野地区を指しているというのが主な根拠であるが、江戸時代半ばから末期にかけての神社関連の古文書の中に複数の地形を挙げて神武天皇の『聖蹟』としている。ただ、具体的な説明はなく、現在説明されている神武天皇関連の説明の大筋は『三国名勝図會』に依っている。伝承では、いわゆる東征までこの地で暮らしたとされている。

2. 古墳時代以前

 まず、高原町では、旧石器時代の遺跡は確認されていない。現在のところ確認できた最も古い遺跡は縄文時代前期である。後川内地区の川除遺跡からは曽畑式及び轟B式土器が数点確認された。又、大谷遺跡では、表採資料の中に曽畑式が数点確認された。現在のところ、この2遺跡のみである。
 縄文時代中期になると、徐々に遺跡が増加する。昭和43年に発掘調査された高原畜産高校遺跡や椨粉山遺跡などで阿高式土器が出土した。
 縄文時代中期末から後期に入り、遺跡の数が増大する。主な遺跡としては、大谷・佐土・椨粉山遺跡などがある。それらの遺物には、南九州の在地文化から中〜北部九州・瀬戸内・四国など、幅広い文化圏の影響が見られる。
 その後、遺跡数が急激に減少し、弥生時代の遺跡は殆ど見られない。これは調査数の少なさによる。弥生時代から古墳時代にかけての集落遺跡が調査されたのは、麓地区の立山・荒迫遺跡のみである。このうち立山遺跡では、弥生時代後期から古墳時代初頭の住居跡が30基近く検出され、さらに軽石製の炉や埋甕などが検出された。
 高原町における古墳時代の遺跡は、集落遺跡よりも地下式横穴墓の方が著名である。高原町では、これまでに4群107基が検出されている。出土地は、湯之崎・旭台・日守・立切で、後川内に多い。墓内の家屋表現や彩色がよく見られる。西都原古墳群のような高塚古墳は見られないが、山間部には墳丘と思われるマウントが多く見られる。

3. 古代

 地下式横穴墓の下限である6世紀前半から歴史的に全くの空白となる。照葉樹林や草原を形成していた事が土壌分析により判明している。
 9世紀に入ると、同時多発的に開墾が行われている。荒迫・川除・大谷・椨粉山遺跡で畝状遺構が検出された。栽培作物については若干のイネの痕跡が見られる程度で、大方は根菜類の可能性が高い。
 この畠が使用されなくなった後は、再び山林化し、鎌倉時代から中世にかけては、荒迫・大鹿倉・椨粉山・宇津木遺跡などで狩猟用と見られる陥し穴が数多く検出されている。
 なお、この辺りから霧島山に関する記述が見られるようになる。承和4年(837)には官社に列せられて従五位上の位が与えられ(『続日本後紀』)、続く天安2年(858)には従四位下に昇格した(『日本三代実録』)。この時は「霧島岑神」と称されている。又、『延喜式』には、諸縣郡一座として霧嶋神社の名が挙がっている。
 承平5年(935)頃に成立したとされる『倭名類聚抄』には、「諸縣(牟良加多)郡」の中に8郷見られ、この内、当地方を指しているのは春野郷という説が有力である。

4. 中世

 中世では、高原は殆ど山岳修験の道場となる程山林化していたため、史料に登場する事は殆どないが、現在の町域は三俣院あるいは真幸院に含まれていたと推定される。15〜16世紀には、当時の高原は日向国と大隅国の国府付近を結ぶ要衝である事から、日向中部の伊東氏・真幸院の北原氏・薩摩国の島津氏の3氏による争いが続き、現在の市街地に位置する高原城は、3氏の勢力争いの舞台となった。16世紀半ばに入って伊東氏の領地となったが、天正4年(1576)8月、島津義久・義弘ら島津勢が高原城を攻め落とし、以後島津氏の領地となった。豊臣秀吉の九州平定以後、島津久保、次いで島津義弘の領地となるなど変動するが、以後薩摩藩領として定着する。
 宗教面では、長門本『平家物語』で霧島山に触れた記述があるが、本書が成立したと思われる中世辺りには、霧島山が『日本最初の峯』として認識されていたようである。

5. 近世

 近世は、薩摩藩領として安定した支配体制を保っている。地頭制施行当初の領域は、現在の高原町(広原を除く)と高崎町と推定されるが、延宝8年 (1680)の領域変更に伴って高崎郷として独立する代わりに紙屋郷水流村(現都城市)・小林郷広原村(現高原町大字広原)が編入、新しく5村で構成され、幕末に到る。藩からは地頭が派遣されたが、度々「無地頭」という記述が見られ、地頭不在を窺わせる。さらに、19世紀前半頃には周辺の数郷を地頭1人に一括支配させる居地頭体制が行われた。当初は小林・高原・加久藤・飯野・須木・野尻を併せた6ヶ郷請持体制となったが、その後、小林に高原・須木・野尻・高崎を併せた5ヶ郷請持に再編成された。この前半の6ヶ郷・後半の5ヶ郷請持体制が後の西諸県郡の基礎に繋がるものと思われる。
 高原郷には、鹿児島城下から国分・霧島を経て、綾郷(宮崎県東諸県郡綾町)に至るまでの綾往還が郷内を通過していた。文化9年(1812)に日向国に測量に入った伊能忠敬一行も東御在所の麓にある祓川集落より測量を開始し、狭野神徳院に宿泊、麓村を測量しながら通過し、野尻郷との境である猿瀬越まで測量 が行われた。
 宗教的には、高千穂峰の周囲を囲む6つの大きな社寺を指して「霧島六所権現」と呼ばれた。郷内に所在する霧島東御在所両所権現社・狭野権現社等もそれに 含まれ、島津氏の庇護を受けて繁栄した。又、これら社寺に奉納された神舞等の諸芸能も発達した。

6. 近代

 明治時代に入り、明治16年(1883)に宮崎県が設置されると、同年6月には北諸県郡、翌17年(1884)1月からは西諸県郡に属した。その後、明治22年(1889)の町村制施行に伴い、麓・蒲牟田・広原・後川内の4村が合併して高原村が成立、昭和9年(1934)には町制施行に伴って町に昇格し、現在に至る。

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